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[戦闘する叡智]

美しい少年の存在論 I

11/24/2019

 
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マルクス・アウレリウス・アントニヌス(少年時代)
さあ、形而上的雰囲気を満喫するべく古くて新しい分野の話を始めよう。それは、美しい少年の存在論です。形而上と形而下と二つの仕組みから、簡単に理解していこう。男性と美しい少年の間の特殊な状態とは、歴史的には真実の愛とされることであり、まったくの精神的な営みだったのだ。

まず、男性と女との関わりについて明らかにしてから話を進めよう。機能的に正常な男性ならば、どの種類の女とでも性行為をして物質的な快楽と物質的な子供とを得ることができる。女との交わりとは、自ずから生涯の伴侶と将来の繁殖とを含意する。しかし、少年となると単なる少年ではいけない。まず、少女や女より美しい少年でなければ話は始まらない。だから、美しい少年は、中立的な美しさを持つ。両性にとって好ましく、しかし、その美しさへの入り口はまず限定されている。数の話で言えば、抱くのにちょうどいい女と言うのはごまんといるが、相手にするべき美しい少年となると、まるでどこにもいないようなものだろう。なぜならば、美しい少年のうつくしさとは、単なる外面的な基準でのみ推し量られるものではないからだ。

女は男にはなれない。このことが、美しい女のオントロジーが存在しないわけである。美しい女とは、男性からすると、女であり肉欲の対象に過ぎない。女とは、男にとっては単に物質的なものであり、リアリズムの存在である。それは、少女愛を訴える男性たちにおいても同じ話である。例えば、それらの男性は、出来の悪い母親を持ったから、出来の悪い女に苛まれたから、自分は理想の少女を女にしたいと思うわけであって、すべては単なる物質的なやり取りの話である。女という物質を男性である自分がどう扱うかという一点に、関心の中心が座している。自分好みの言いなりになる少女を望むことは、単なる物質的な心理的充足への希求に過ぎない。なぜならば、それは空想上で、都合の良い体験のみを追いかける行為であるからだ。そして、多くの一般的な男性は女にまつわるフェティシズムに耽る。女にまつわる呪物を追い求め、体験を崇拝する。それは、すべてが形而下における事象である。

一方で、美しい少年とは、形而上のものであり形而下のものである。すなわち、彼の美しさは眼で特定のできるものであって、実在である。白い陶器の肌も、金色の巻き毛も、碧くガラスの両眼も、すべて実在するものである。しかし、彼の持つあるいは持つべき本性とは、彼を美しい少年足らしめる本質であり、それなくして彼が美しい少年であることはない。美しい少年とは、美しい男性へと翼を広げる可能性を含意する。彼は、正義を知るべきだし、時に勇気を振り絞るべきだし、どう誤ろうと見下げた男になってはいけないのである。彼がヴィオラを弾こうと、お人形遊びはするべきではないし、おもちゃは自動車のミニチュアであるべきである。だが、彼の持つべき正義とは、勇気とは、貴族性とは語りえるものであろうか。美しい少年の存在論とは、このような男性性という特権性への存在論を基礎に置く。男性という歴史上特権化され貴族的であった存在の持つ純化された本質について、哲学的な物好きたちは思いを馳せるのだろう。

美しい少年のオントロジーとは、この種の男性たちがもたらす利他的エゴイズムに裏付けられる。この種の好事家において見られる受難とは、このようなことである。自分自身と交わることは出来ないという事実と、自分自身の少年時代という概念的な理想の不在である。それがある形で結実したものが、美しい少年の存在論であろう。まず、誰も自分自身と交わることは出来ない。仮にできるとして、それは精神的なものである。どれだけ、自分の美学を信仰したとして、神と愛し合うことができるとして、人は自分と愛し合うことは許されない。では、彼らが何を企てるかというと、実在はしないしかし存在はするアモールへの道を歩み始める。彼らは、その飾られて神性を帯びる少年時代に足すか引くかの試みをする。それは、在りはしないが在ったことであり、在るべきことでもある。なぜならば、彼らは育てられるべき美しい少年こそ求めるが、その少年自体を愛さないからである。彼らが愛したいのは、自分自身という他者である。鏡の外に置く、自分自身である。しかしそれは、自分ではだめなのだ。本質的な善性に裏付けられた美的な実在でなければいけない。なぜならば、彼らが男性であり本質的な美と醜とを知るからである。そして、自分を愛すること以上に他人を愛することはできない。ゆえに、彼らが歴史上主張した愛は事実、真実の愛であったのだ。

美しい少年の存在論とは、形而下と形而上の行き来である。かかる少年という実在を介して形而上の性質であるところの、勇気、真、善、美、が実在として育てられうる。美しく利発は少年は、善性という捉えがたいがしかしわれわれが人類に希求するところである何かを、雄弁に裏付ける。地上、彼は善なるものの根拠であり、超絶する世界においては、善そのものである。研ぎ澄まされた男性性というメタフィジカルな接点を、男性と美しい少年とは共有する。おそらくは、共有されたメタフィジカルな空間というものが、彼らをつなぎ合わせる唯一の理由である。だからそれは、真実とそう遠くない場所にある。

他方、美しい少女の存在論というものはない。なぜならば、女とは幼児から女へと変身するものであり、少年期に対応するであろう少女期というものを持たないからだ。有り体に言えば、女とは幼児であるか生殖可能な女であるかの、二分された時期しか持たない。彼女たちは、少年期という橋を渡らない。男性には少年期があるのだから女性には少女期も当然あろうというのは、対照的な理解に過ぎない。しかし、本来、女とは娘である。女にあるのは、少女時代ではなく娘時代である。なぜならば、少年は生まれると一刻の後には死ぬが、娘は終生死ぬまで娘だからだ。少年の先にある青年という段階は、彼がミニカーで遊んだ時間とはまったく異なる種類の時間である。少年の時間は現在に在りながら、過去へと広がりを持ち未来へと繋がっている。



Reference:
Plato. "Meno"
Marcus Aurelius. "Meditations"
Gaius Petronius. "Satyrica"
Martin Heidegger. "Being and Time"
Simone de Beauvoir. "Memoirs of a Dutiful Daughter"
Michel Foucault. "The History of Sexuality"
Pierre Bourdieu. "Masculine Domination"
Maurice Ravel. "La Valse"

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