ジョセフ・バラ(1779-1793) 美しい少年の存在論、ついに第三回です。最近はnoteでも紹介してもらえたので、潜在的な需要があるテーマだと確信しています。それでは、今回は美しい少年を支持する気配とその性について考えていきましょう。IIIの議論については、"美しい少女、美しい少年"を継承しています。まだの方はそちらもどうぞ。じゃあ、今回の文体は中くらいの硬さでやってこうか。 少女の存在論がアートに帰結することとは反して、美しい少年の存在論はアートのオントロジーの先にあるものである。美しい少年とはアートでもあるが、アートだけのものではない。彼は社会に資する才能のうち、明確でないものを含意する。それゆえに、美しい少年の存在論は彼の社会的意義からの考察が不可欠である。それは次のような仕組みがあるからだと考えられる。 美しさが何を示唆しうる、または何を期待させるのか、という問いから始めよう。美しい少年の美しさというものは、男性であり男性ではないが男性になるという前提の上に立つ美しさのことだ。その美しさには成熟する男性性が潜在する。ゆえに、少年はある種の主導権を生まれながらに備えている。周囲は彼に、男性として能動的で活発であることを望む。一方で、美しい娘の美しさとは、娘であり女性であるという前提に立つものだ。その美しさは受動的であり、それは経済的評価と審美的解釈の対象に過ぎない。娘には女性ではないという様相はなく、娘というものは小さな女性のことである。少年は男性ではないが、娘は女性である。そして、彼女に課せられる役割は女性であることだ。 美しい少年の美しさは、モラリティを含意する。男性の美しさというものは、他の才能を示唆するものだ。ゆえに、彼の美しさは善いものを想起させる。その善いものは彼自身が発するモラリティであり、またそのモラリティの根拠だろう。彼が纏う善いものである気配とは、男性になるところの彼に対する期待から成る。彼は、過去であり未来である。未来であるがゆえの過去であり、彼は現在に属しながらも時間的広がりを持つ。周囲は美しい少年を得ると、モラリティに類する期待を投げかける。モラリティは一面的なものではなく、多層的で多分に曖昧で透き通っている。少年のモラリティには、女性のそれにみられるような濁りはない。そして、美しさの持つこのモラルの含意こそが、地上、彼が持つ倫理的な根拠である。おそらくは、モラリティの持つ働きかけが、美しい少年が実在でありながら形而上と形而下とを行き来することを許している。 美しい少年が含意するモラリティとは、原理でありながら機能であり、約束でありながら無矛盾である。本来、原理は機能を構成しないし、機能は原理を要求しない。約束は破られるものだし、無矛盾であるものは自ずから矛盾を抱えている。しかしながら、美しい少年のモラリティはそれら四点を苦も無く内包する。それは、男性性にみられる高い精神性が、未完成の原型であるところの少年により高い理想を願うからかもしれない。現代において不可能なことは、未来において可能でありうる。少年と男性の関係性においても、同様のアナロジーが働くとして、何ら不思議はない。少年は男性の未来であり、少年は男性の過去である。彼らが存在するのは現在でありながら、広がりを持つ場である。この精神的な場は、形而上のことがらであり、高い透明度を持つ。透明度は、彼らの愛情あるいは志の高さに比例して高められていくのだろう。それは目には見えないし、在りはしないが確かに在ることである。ゆえに、少年と男性の関係性は非合理でありながら、透明度という名のまったくの合理性に裏付けられている。両者の営みは、曖昧であるのに透き通っているのである。 他方、美しい少年のモラリティはアモラルな空想をも呼ぶ。彼の美しさは、飾り物ではない。娘と男性の関係はすっかり禁じられ閉じられているが、少年と男性の関係は同性ゆえの勝手口が置かれる。それが、少年と男性の間における性交渉が暗黙のうちに存在する所以である。少年と男性の関係性において、性というものは切っても切れない位置にある。ただし、少年と男性における性交渉は男性同士における場合のそれと比べて、かなり軽いものであったろうと思われる。なぜなら、少年と男性では体躯の差があるし、少年の意に反して怪我に及ぶ行為があれば、両者の心理的な絆にひびが入るであろうことは明白だからである。つまり、男性はソドミアンではなく、肛門性交はまれで愛撫などがもっぱらであったろうと思われることは、さして不自然なことではない。少年と男性の関係は、女性と男性の関係とは一切を異にする。女性とは、男性にとっては恋人か妻である。少年とは、息子であるか弟子であるか相棒であるかあるいは恋人である。少年と男性の関係の様相は多元的宇宙へと志向し、物質的に割り切れるものではない。二者の間に基底する特殊な意識の流れは、まぎれもなく肉体ではないのである。彼らの関係は肉体と精神ではなく、精神と肉体の関係なのである。それが、この愛が真実の愛に最も近いものになりうる所以である。 地上、美しい少年を裏付ける最大の根拠は、彼自身にはない。しかし、彼は男性になるのだから、主体性を持つのである。そして、モラリティという含意が、何より彼の存在を雄弁に裏付けているのである。 Reference: Plato. "Meno" Marcus Aurelius. "Meditations" Gaius Petronius. "Satyrica" Martin Heidegger. "Being and Time" Simone de Beauvoir. "Memoirs of a Dutiful Daughter" Michel Foucault. "The History of Sexuality" Pierre Bourdieu. "Masculine Domination" Maurice Ravel. "La Valse" |