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半身、脱色される現実

7/7/2020

 
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ヨーロッパの知的な文脈は、現実を脱色する。この営みというか、工夫というか、彼らの癖については、ある程度の同意が得られている話だろうと思う。もしこの、”脱色”という側面を見ずにヨーロッパの人々の組み上げる、もしくは醸成する論を辞書を引くように理解しようとしていたとしたら、それは何も理解しなかったことと同じだろう。今回は、脱色される現実について、少し話したいと思う。

脱色という現象自体を語る前に、この課題についていくつかの前置きをしたい。僕も、既に半分は脱色されているだろうから、全く中立でありえない。中立であり得ないのであれば、その論も幾分、既に脱色されているかもしれないということだ。状況に拘束されるとき、人はそこに横たわるある種の要請から遊離した状態ではいられない。だが、プラグマティックな面において、この脱色に関して一定の距離を置き続けているだろうと思う。大体ここで話すのは、西欧の知的なやりとりに関してだ。南欧や東欧は、”脱色”とはまた異なる意識のやりとりが広がっているから、全てをひとくくりにして話すことは出来ない。
 
さて、脱色の構造を、簡単に例示しよう。フランスの人は、例えは疑えとか、例えは証拠ではない、とよく言う。わかりやすく言えば、アメリカ的な例証のうまさで論証するのではだめだということだ。証拠より論が重んじられる。しかし、そこはあくまでも半分が論であり、半分が現実である。事実と解釈の有機的な融合が求められているのだろうと思う。それを傍から眺めるとき、現実は脱色された、という印象を起こすのだろう。美しいが宝石ではない、輝くが星ではない。水に落としたインクの広がりの輪郭を追いかけるような試みだ。だが、全てを嘘で塗り固めるような、日本的営みは見られない。これをやりすぎているのが、フランスに端を発する現代思想と言えるかもしれない。もう既に白人たちは、バレルに火薬を込めて資源を勝ち取り、社会的個人なるものを確立し、この地球を理論的に統治したのだから、この上なお幻想まで作る必要はないはずだ。幻想は弱者の逃げ場なのだから、持つべき者とそうでない者とがいる。
 
脱色するにせよ、現実に対する冷静なまなざしは不可欠である。徹底的な観察をするから、それを踏まえた省察を行うから、現実から色彩を半分取り去ることが可能になる。個人という人体を測定機器として対象と向き合い、知性が知覚を征服することで理解が生まれる。つまり、微視的な認知機能を通して通った水は、それを克服する認識の多元的階層を経て、水であり水ではない物へと変化する。もしくは、実在への疑いの視線、より意識的な知覚への働きかけ、あるいは第三者からは測定の困難な多元的世界が脱色という結果に一役買っているのかもしれない。そしてヨーロッパの大地は、この営みを促す。ぼやけた輪郭の時間に埋め尽くされ、豊かで平和で、しかし出口のない閉じられた森。高度に満たされて循環するから生まれる、事実への許容と否認。巨人が肩をすくめて挨拶をするように、謙虚でありながら動かしがたい軸を持つのが、脱色された半身、色を失いつつある現実だ。
 
これらの話は経験がなければ、推察の難しい働きかけだろうと思う。だから、とても簡単な次元でとりあえず納得するには、アメリカのインテリは簡単な話をむずかしくするのが好きでヨーロッパのインテリはむずかしい話を簡単にするのが好きだ、と捉えておけばそう間違いはないだろう。

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