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主観の内の客観性

6/26/2020

 
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日本の人がよく言う、なんでも困ったら感性と好き嫌い、もしくは主観という言葉に置き換える行為はあまりに準備が足りていないよ。なぜなら、それは単なる説明の放棄だからね。

意識がどちらをより好むかというのは主観的な出来事
だけど、その客観性を論じることはできる。だから、全ては好みの問題だという言い分は、暴言さ。主観だから論じることができないというのは、ちょっと乱暴すぎる。つまり、僕がしばしば引用するスウェーデン美女とシンガポール人女性の比較例の話で行くと、それらは好みの差でしかないというわけだ。もしそれが真実ならば、もっとシンガポール人女性のファッションモデルや広告を目にしたいものだ。もし全てが単なる主観だというのならば、好みの結果はもっとばらつきが出なきゃおかしいだろう。

主観論というのは、何故それを私が好きか、は説明できないと言っているわけなんだ。そして、相手が説明したとしても、理解できないというわけなんだ。だけど、ある形は美しくある形は醜いというのは、経験と学習によるところが大きい判断だろう。そして、判断の材料に外から入ってくる分があるのならば当然、もう一度外に出して説明することができるんだ。

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