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美しい少女、美しい少年

12/12/2019

 
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美しい少女に求められることと、美しい少年に求められることの間には、あまりの差がある。これは"美しい"ということへの、定義の問題であると読み替えてもいい。

美しさ、それは両性において同じことを意味するだろうか。まず、美しい少女に求められることは、美しさだ。顔立ちとか、肌の色とか、瞳の色とか、髪の色とか、スタイルだとか、つまり容姿に関しての美しさだ。だから、美しい少女は文字通り美しくあることを求められている。一方で、美しい少年に求められることは、美しさだけで済まない。つまり、容姿の良さに加えて、男性としての優れた資質のうちいくつかを同時に持っている必要がある。それは、スポーツにまつわるものであったり、勉学にまつわるものであったりする。天才的な発想力もまた、良き男性性に類するものだろう。つまり、"良き容姿+良き男性に成長しうる資質のもと"というのが揃って、彼が美しい少年だと確認されるようになる。美しい少年の場合、単なる姿かたちは彼の存在に無条件の優越をもたらさない。美しい少年の美しさを正当化するものは、おかしなことに外見の美しさ以外の才能の類なのだ。

これは、大人の男性に対する価値観がそのまま少年にも適用されているだけと見てもいい。つまり、女性の場合ある一つのことが優れるならばその存在自体が正当化されるが、男性の場合は複数にわたって高い水準の技能を持たないと一流とは評価されない。例えば、たいへん料理上手の料理研究家の女性と言うと一目置かれるだろう。では、同じような料理研究家の男性が同様の評価を受けるかと言うとそんなことはない。何件レストランを経営しているの?とか。どういう有名店で訓練をしてきたの?とか。社会的な価値観に基づく、重要性や意義において審判される。男であると、家庭料理が得意なだけでは、誇れるものでもないのだ。

ヨーロッパを中心とした審美眼はとりわけ男性に成熟した精神を望む。美しい少女が相手にするのは誰の目かと言えば、異性の目だ。男性が女性を評価するわけだ。しかし、美しい少年が相手にするのは誰の目かと言えば、両性の目である。女性と男性が評価するわけだ。これだけでも、要求が高くなるであろうことは想像がつく。男性が社会で担わなければならない要求の多様さと言う帰結に思いをはせずとも、少年の両肩には少女の両肩に載るよりも重い期待が載ることになる。少年を測る物差しは子供用に特別に作られたものではなく、大人の男性を測る場合に用いるものの長さを少し短くしただけのものであろう。だが、何か一つだけが得意で、一流の男性になれたりはしないという仕組みは、考えてみればずいぶん不公平な話だ。それが最良とは思えないが、別に、美しい少年も美しい少女と同様に単なる見た目だけで評価されてもよいだろう。もし仮に彼が将来優れた男性になることを明確に示唆しなかったとしても、今ある彼の美しさは彼の自身の美しさなのだ。

僕は子供のころから料理が得意でたまにすることもあった。すると、母から男の子はもっと生産的なことをしなさいと言われたのを記憶している。だから、代わりに電子式のパイプオルガンでバッハの練習をせっせとしていたら、母は満足そうだった。僕は、声は美しいと言われても歌は音痴だし、楽器は訓練した人間の域を到底出ない次元でしか身に付かなかったけれど、音楽家になるわけではない人間にとってみれば音楽とは学ぶことこそ大事だったのだろう。それは、美しい内面を外在化させた芸術の内側を歩きなおす試みであるのだからね。

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