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前線からの手紙

11/25/2019

 
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宣言'2019-
想像してみてほしいんだ。ウイルスはどんな形をしているだろう。自分の目で注意深く見ようとしない人にとっては、形がないのも同然なんじゃないのかな。ウイルスは実際的には存在しないかのように、毎日に浸み込んでしまっている。そして、気づいた時には手遅れだ。問題にならなければ、全部見過ごしてしまえる図々しさを、ぼくらは持っている。気にしない、気にしなければ問題じゃない、と無意識のうちに願っている。そして、何かが起これば知らなかったと言って、まるで被害者の顔をする。だけど、ぼくらが呼吸をしている限り、ぼくらが日常のウイルスと無縁であることなどできはしないんだよ。ことが起ってしまう責任は、ぼくらにあるんだ。いくら毎日を早足で歩いてみても、立ち止まることを恐れてみても、この事実は変わりはしないんだ。

学ぶということは、人を幸せにするかは全くわからない。だけど、自由に生きるためには必要なことだ。ウイルスを見抜くには、知恵がいるんだから。それは誰かに答えを教えてもらうんじゃなくて、自分の頭で考え、自分の目で見るということなんだ。本当は、ぼくらは見ていたんだ。子供時代に多くのことを見てきたんだ。だけど、都合の悪いことは忘れるようにと、教え込まれたんだよ。それを、大人たちは教育だと言ったんだ。

もう一度、目を開こうとする人と共に歩き始めよう。無数の矛盾で埋め尽くされてしまったものが、不正が、裏切りが、悪意が、ぼくらの社会にあるとしても、それは同じ人間が作ったものなんだから、もう一度ぼくらの手で正しい道に戻せるはずなんだ。





願い
ぼくらがもし、自分で自分の欲しいものが見えないとしたら、それはおかしなことなんだ。人間の根源は願いだ。それを操作されたり、失くしたりしてはだめなんだ。もしきみが願いのない人間なら、きみは完結してる。きみは人を必要としないんだから、自分で畑を耕し時に狩りに出て生きていける。

ぼくら文明の中に生きる人々は、願いとすり替えられた欲望の中を生きている。それは、ぼくらが本当に欲しかったものじゃない。狼のような大人たちが、ぼくらが欲しがらないとおかしいと、欲しがることが正しいんだと、そう吹き込んだこともあるんだ。本当に必要なもので満足することができたのに、本当は願わなかったことを代わりにいくら食べてみたって、少しも満たされたりしないんだ。それは、その場限りの嘘なんだ。それは、欲しいものがなかったことと同じなんだ。

だけどもし、ぼくらが立ち止まる機会と振り返る機会に恵まれるとしたら。だけどもし、ぼくらが自分の欲しいものを自分から願えるようになるとしたら。後悔はもうすませておいたほうがいい。走り出したいと思ったときに走れなかったら、悔やむだけじゃすまないだろうからね。だけど、自分の願いは他人のためといって始めちゃいけない。自分で自分が願うように生きることが、きっと一番ぼくらを自由にするんだ。





勝利
不満があるなら、今すぐにやめたらいいんだ。だって、きみは戦うことへの意志を持たないんだ。やり方を選んでいるから、不満なんかが口をついて出るようになったんだ。もし、きみが本気で取り組んでいるのなら、やるか、やらないか、ということで葛藤したよ。やるか、やらないかだ。だけど、きみはやり方をを選ぼうと言って座り込んだままだ。勇気のあるやつは座らない、立つものだ。座り込んだまま、本当に勝とうなんて意欲がなど湧いてくるわけがないんだ。中途半端とは後にも先にも、何も残らないんだ。ならば始める前にやめてしまえばいい。

だけど、きみがもしある事実に気づくとしたら、その責任から逃れる言い訳は持ち合わせないよ。それは、きみの問題は、きみだけの問題ではないということだ。きみがすることは、きみ一人だけのことではない、いまここにあるだけの話じゃない。きみがすることは、きみ一人の言い訳を考えて済む話ではないんだ。なら、やるんだ、徹底的にやるんだ。やり方を選んでいる暇はないよ。やるか、やらないかなんだ。





論理
どんな論理も自分で使って論理に対する確信を持つまでは、ぼくらの手足になり、役に立つことはない。論理を論理のままありがたがっていても、その論理はぼくらのものではなく、ぼくらが論理の奴隷になるだけだ。論理の価値とは、使われる人の手にない限り決してわかりはしないんだ。そして、論理も使われる人の手にない限り、論理なんて仰々しい名で呼ばれるいわれなどないんだ。それに、論理は大人が始めた単なる解釈である場合がほとんどだ。誰かが始めた一つの解釈を世界中の人々が信じているかのようにラベルで飾り、ぼくらににありがたがるように仕向けたからといって、その論理が真実かどうかとは関係がないんだ。

だから、ぼくらは誰かのしてくれた解釈をありがたがって自分の知識にしてはだめだ。それはぼくらの知識じゃない。もしぼくらが知らず知らず話す言葉の中に、大人が始めた解釈が表れていたとしたら、ぼくらは頭まで奴隷になると表明しているんだ。ぼくらは、知識を得たと思って自分を貶めているんだ。だから、ぼくらが知識を自分のものにしようとするときは、自分の頭で考えることを放棄しては絶対にいけない。大人に考えてもらったことを、自分の考えにしてはいけない。考え抜いた末に、大人の言い分に賛同するというのなら、それは誰かの論理じゃなく、ぼくらの論理になる。ぼくらを自由にするのは、他でもないぼくらがぼくら自身で考えることを選択することだ。

自分で考えることを始めない限り、ぼくらは自由を得ることはない。だから、ぼくらはぼくら自身を信じることから始めて、その後、大人を信じるようにする。子どもが子どもを裏切るよりも、大人が子どもを騙すことの方が、遥かに多いんだから。まずは、ぼくらはぼくらを信じることから始めなければならないよ。





過去
ぼくらが本当の歴史を学んだとしたら、未来でやる失敗のうちいくつかを防ぐことができるかもしれない。だけど、いつまでも死んだ人間の言葉にとらわれ続けていてはいけない。歴史とは死んだ人間たちが作ったものだ。歴史が照らすのは過去だ。未来を照らすのは、子どもたちだ。過去はぼくらの段階でやめにしよう。そうしないと、新しい子どもたちもまた、ぼくらが祖先から受け継いだ呪いを引きずる。未来という名の過去をさまようことになるんだ。

ぼくらの言葉でさえ、死人の言葉として踏み越えて、新しい段階へ進めるよう次の世代を応援すべきだ。きみもぼくも、もう過去の人間だ。過去は、過去の間違いから未来へ助言を残すべきだけれど、そこに遺志の強制があっては絶対にならない。過去は、過去に過ぎないんだ。過去は、未来ではないんだ。それでも、ぼくらは、過去と戦う必要がある。それはぼくらの世代で片づけておかなければならないことに関してだ。さもなければ、未来という名の過去を、新しい子どもたちにもまた背負わせるはめになる。

だから、ぼくたちは過去に囚われた大人たちに対して寛容ではいられない。容赦もできるかわからない。徹底的に戦う準備をすべきだ。誰が悪かを見定めて、未来を侵犯しようとするやつに対しては手加減はすべきじゃない。手加減をしないというのは、どんな方法も考えるべきだということだ。





無知の知
ぼくらは知っていることに責任を持つべきだ。ぼくらが習得したことは、単なるぼくらの努力だけの結果じゃない。ぼくらの知恵になるように、骨を折った人もいたんだ。ぼくらがいくらお金持ちになったとしても、お金持ちになるまでに歩いた道を全部買うことはできないだろう。だから、ぼくらは知っていることには責任を持つべきだ。ぼくらが手にしているものは、ぼくらだけの成果ではないのだから。それに、知っているということは、行動がとれるということなんだ。ぼくらは全てを知っているわけではない。だけど、知っていることに関しては、責任をもって取り組めるはずだ。ここまでなら知っているぞ、と言える責任感がない大人にはなっちゃいけないんだ。

大人がぼくらより少しくらい知っているなんて、どうでもいいことだよ。人間は誰でも間違うものなんだ。すべての時代を通して、人間は間違いながら進んできた。それが、僕たちが学校で習わなかった人間の歴史だ。だから、間違いに気づいたときは、改めることが大事だ。それが本当の、無知の知なんだ。謙虚というのは、自分の誤りに真摯であることをいうんだ。友達の声に耳を傾け、誤りは正す。ぼくらが人より知らないことを知っているかどうかなんて、どうでもいいことだ。ぼくらが犯すだろう間違いに、自分で修正を加えることができれば十分だ。間違ったら訂正をして、前を向いて進むんだ。それすらできない大人たちで、社会はいっぱいなんだ。





戦闘
明日は死ぬというつもりでやれ、というのは良くある話さ。だけど、きみは今日今ここで死ねるかい?明日までというのは簡単な話なんだ。明日死ぬつもりでというのは、明日まで時間を使っていていいってことだ。明日までは考えていていい。明日までは何をしなくてもいい。そんなのは、鎮痛剤と同じなんだ。明日までは手をこまねいていて、何もしないでいて構わないというわけだ。だけど、ぼくらはその問題について、どれだけ長い時間を見過ごしてきたんだろう。何年手出しをせずに来たんだろう。そしてこれから、ぼくらは、明日まで、というさらに一日も追加しようというのだろうか。ぼくの問いはとても簡単だ。きみは今ここで死ねるのか、それともまたもう一日といって逃げ出すつもりか、ってことだよ。今決定できないことが、明日決定できる場合もあるとは思うよ。だけど、それは明日行動するって、ずっと前から決めて用意をしてきた人たちに限ってだ。本当は、明日死ねるつもりかどうかを問うつもりはなかったよ。ただ、今ここで戦う用意がないなら、明日になれば事態はますます悪くなるってことを知って欲しかったんだ。





認識
どうして大人は自分を変えようとしないで、ぼくらを変えようと望むんだろう。なぜ自分が変わるより前に、他人が変わることを期待するんだろう。変えようとする人は、まずは自分が変わらなければならないよ。変わらないのなら、変えようとはしないことだ。だって、ぼくらはもう一切の妥協をやめたんだ。ぼくらがやるべき唯一のことは、大人が僕らに何をし、またしようとしたのかを思い知らせることだ。大人が使った言葉を、ぼくらも使う用意がある。殴るやつを殴り返しちゃいけないなんて、大人の論理は間違っているよ。ぼくらは自分を守っていい。自己防衛を計画すべきだ。防衛とは行動をすることだ。ただ現実に目を向けることなんだ。行動とは力なんだ。ぼくらは、ゆるぎない決意と確信を持って立ち向かうんだ。自由の前を横切る大人たちに対して、頭を使って怒る時期に来たんだよ。





過冷却
ぼくらが自分が置かれている状況、すなわちぼくら自身を知ったならば、話は簡単なんだ。ぼくらは、行動する。頭を冷やす時間は終わりだよ。ぼくらの頭は冷やされすぎて、悪い大人の考えに支配されるようになっていたんだ。もしぼくらが、この真実を前にしてもなお身動きを取れないなら問題だ。大人たちはぼくらを愚かなままにして、永久に支配を続けたいと思っているんだ。だけど、ぼくらはぼくら自身を学んだ。行動することに際して、男でなければいけない決まりはないよ、女でもいいんだ。ただ知性のある人間でありさえすればいいんだ。知性のある人間なら、誰しも自由を欲するものさ。ぼくは常に行動することは正しいことだと思ってる。手加減なしでどんな方法を考えてでも、自由を獲得しにいくよ。





作戦
誰もきみに自由を与えはしない。誰もきみを平等にはしない。誰もきみに正義をなすことはない。きみが人間であるのならば、これは自分の力で手にするんだ。生きることに意義をもたらすための戦いだ。今まさに求められている、人間の条件の話なんだ。この惑星の上で今起こっている話なんだ。妥協を続けて、きみはそこまで追いやられたのだから、これ以上の妥協は無意味だ。これ以上追いやられて、よりよい作戦なんてありはしない。これが終わった後は、より悪い状況に突入しているだけだ。もしぼくがきみなら、最後の作戦さえ検討する段階だ。





オートノミー
ぼくたちは全くの自由であってはならなかった。ぼくたちの持つ力には、誰かの手によって作られたものもある。このペンを握ることでさえ、教えられずできるようになったかはわからない。ぼくらの能力には、社会の手による余りが残る。だけどそこに、愚かな大人たちと一緒に心中しろ、という意味は含まれない。どんな場合であっても、全ての力は、正しい行為に使われるべきなんだ。暴力を突きつけ服従を強いるものの下で行使されることを、力が文字通り力なら拒むだろう。どうあっても、ぼくたちはぼくらの真実、正義を求める。だけど事実、正義は存在しないんだ。自由などないんだ。平等などありはしないんだ。あるのは、それを掴もうとしなかった大人たちだけなんだ。社会の悪意は、外側ではない、内側に存在するんだ。

オートノミーは能力だけれど、ぼくたちは、大人に対する人間としての期待から、これを全て行使したいとは思わなかった。ぼくたちは、社会のために自分を犠牲にする覚悟ができていた。だけど、大人は全てを放棄しろと、ぼくらに人間であることをやめろと言う。ぼくらは、みんなの自尊心を高めるために、前例のない水準の教育を計画するときが来た。そうでなければ、大人がやる政治と経済の暴力には対抗できない。21世紀においても、自分の運命を手に入れるための手段は、教育だ。そして、社会がもたらす悪意と立ち向かうには仲間が要る。ぼくは、自由を保障する集団の建設による再志向を試みる時期に来たと考えているんだ。





知性
もちろん、こういった誤解は耳にする以前から認識していたよ。そもそもぼくは自分自身を知的な人間だなどと思ったことは一度もない。だけど、愚かであるがゆえの誤りとは決別しようとしてきた。そうなるように、周りもぼくを支援した。だけどがそれは、知性に対する態度の問題なんだ。ぼくが知的な人間であるという証明じゃない。だから、知性に関しては常識的な範しかぼくは持たない。"理性に従う行動をする"、ただそれだけのことさ。ぼくたちは神を殺してずいぶん経つのだから、もはや理性以外にすがるものを持たないんだ。

例えばぼくが、きみは自分自身を害する誤りに気が付いてよい時期だよ、と言ったとする。それは、ぼくが知的であることの証明にはならない。単なる対照で比較だ。ぼくの代わりを見つけることは困難かもしれないけど、いないわけでもない。それが、ぼくが知的な人間ではない理由だ。

ぼくらが理解するべき知的な人間とは、このような人物だ。専門性の高く、何不自由しない生まれで、制限のない収入が約束され、だがそれらすべてを危険に晒すことがわかっていても、最前線に身を投じる人物。そういった人と出会ったときは、きみもぼくも支持すべきだろう。それこそ、ぼくらが歓迎すべき知性ある人物だ。

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