僕は、僕らは、何でも見通すように誤解されるけれど、例外はある。知性と感性を何人分も投入して、理解できなかったことはある。それは、逃げ出す前から逃げ出すことを決め、矮小な精神の殻へ閉じこもり、自分に立ち向かう全てを堂々否定し、にもかかわらず実生活ではおどおどと自信なさげに暮らしている人間たちのことだ。今回はその話をしよう。
ヨーロッパの知的な文脈は、現実を脱色する。この営みというか、工夫というか、彼らの癖については、ある程度の同意が得られている話だろうと思う。もしこの、”脱色”という側面を見ずにヨーロッパの人々の組み上げる、もしくは醸成する論を辞書を引くように理解しようとしていたとしたら、それは何も理解しなかったことと同じだろう。今回は、脱色される現実について、少し話したいと思う。
個性化の時代は終わりを告げた。現代は、個人化の時代だ。だが未だに、個性化と個人化との間にある本質的な差異を取りかねる人も多いようだから、標準的な意味においてのそれらの違いについていくつかの説明を試みたいと思う。
AIが普及した時代の立ち回り方とか、立ち位置の作り方について意見を求められる。そもそも、僕はその手の専門家ではない。人間の条件という悩み方は古いテーマだが、機械の力によってその回答に決定的な形を与えられると知ると、けっこう面白い。聞いてくる人たちは笑い話じゃないって気分なのだろうから、真面目に考えてみよう。人間の創造性だとか、今後人間は色々と問われはするが、ごく大衆的な目線においての優先順位でいえば地域と心中することが重要だ。
民主主義やっててもうまいく条件について考えてみよう。そんな必要はない、民主主義自体が素晴らしいのだからとか言う人たちは、僕がアラーの神はすごいぞって言っても、言い分聞いてくれるんだろうか。当たり前だけど、民主主義をやっていける条件を準備するにあたっては、民主主義すごいよって学校で教えてはいけないよ。みんなそれぞれで考えろって言っているわけだから、考えることを奪うような教育をしたらいけないんだ。
誤解される前に言っておくけど、僕自身はフェアネスを絶対のものとして支持しているけど、欺瞞的なデモクラシーを旗印に平等な社会を目指すことに限界を感じているだけだ。みんなもう、これまでの老人たちのしでかしてきたまやかしが、文字通りの幻でしかないことに気が付いているはずだ。 |