僕が扱っている現象学的精神分析16分析の理論面について解説をしているよ。 現象学的精神分析16分析とは? 16タイプ性格は、みなさんご存じの16Personalitiesで診断できるよ。これは16タイプ論、MBTI、ユングの類型論、様々な呼び方があるね。16分析は、従来の16タイプ論を徹底的に組み替え実際に運用できるものとして作ったよ。 類型は全体像を描く。だけど、16タイプ論とビッグ・ファイブ・セオリーを科学的な妥当性においてのみ比較した場合、16タイプ論が勝る面はほとんどないね。因子論と異なり、類型論に普遍的な客観性を持たせることは困難だ。だけど、精神の発達と成長に重きを置いたとき、ユングの理論の哲学的構成には見逃せない部分があるかもしれないよ。それは、"あなたは人生を通してどういう像を結んでいこうというのかという問い"を前にした時だね。類型は、この難しい問いに示唆を与えるかもね。どの方角へ向かうべきか促しうる像を持つということさ。だけど、ある因子つまりファクターを高めたからといって、それが即ちあなたが望む像を得るという事にはならないんだ。あなたが筋力を鍛えたからといって、あなたが上手にバットを振れるようになるわけじゃない。あなたがバットを上手に振れたからといって、それだけであなたが野球の上手になるわけじゃない。こういった、ファクターへの拡大解釈は能力心理学の誤りによって既に示されてきたことだし、発達と成長という包括的な取り組みは部分ではなく全体こそを描く必要があるんだよ。強いファクターをいくら寄せ集めてみたとしても、それはある強い部分が集合したという意味しか持たないんだ。だけど、あなたが人生において描こうという像を明確に描き切れたとしたら、単なる部分の寄せ集め以上のものをあなたは得るだろうね。それが、類型が成長と発達にもたらしうる力すなわち全体像の優越さ。これについては、また詳しく話すよ。 透明のアンテドで活用する16分析は、C.G.ユングの類型論をもとに科学的知見と哲学的骨格とで補強した現象学的精神分析だ。精神分析面では主にラカン派とフロイトの言説に立ち寄り、現象学面ではメルロ=ポンティの理論を採用し、最新の実証研究の力を借りながらプラグマティックなタイポロジーとして再構成している。プラグマティック、つまり理論化を棄却する反理論であるのが僕の"16分析"の特徴だね。 現象学的精神分析16分析の全体論 現象学的精神分析16分析の軸となっているのが、ホリズム(Holism)という全体論の立場だ。人間である彼の存在自体は、人間を構成する因子の算術的総和よりも大きいとする考え方のことさ。これはそれほど難しい視点じゃないよ。じゃあ、例としてジャックの特性を並べてみよう。 ジャック: アルザス生まれ、36歳、色白、白髪交じり、高校教師、内省的、朝と夕に煙草を吹かす、毎日コーヒーを飲む、重度の近眼、少年時代から気煩いがある…、INTJ。 こうして続けてジャックの特性らしいものをいくつ発見しいくつ並べたとしても、ジャック彼自体の存在が記述されつくすことはないね。ジャックを理性のナイフでばらばらにしても、それでジャックのことがすべてわかるわけではない。ましてや、ばらばらにしたものをつなぎ合わせて、ジャックを造り出すことなんか無理の無理だよ。 ユングの類型論を基にしているのにも関わらず、16分析がフロイトを通じてラカンの言説に立ち寄らなければならないのは、ラカンによる人間理解に見られるホリスティックなアプローチを継承する必要があるからなんだ。この人類学的な人間の発見とは、人間である彼自身を捉えるうえで避けては通れないものだ。人は一切自由で、だけど、ある領域と文脈に依存して存在している。例えば、僕たちがよく知るところである言葉の"愛"は、生理的であり社会的な営みでもあるがゆえに、時代を通じて応じて多くの形を残した。愛にまつわる本質が仮に存在するとすれば、愛が時と場所を変えどう綴られるかを知らずに理解されるものではないよ。場合によっては歴史に立ち寄り、人間の記した愛を発掘しなければならないこともあるね。今日的愛の形とは現在と言う点に存在しながらも、文化と歴史と言う広がりの中で限定されるものなのさ。 16分析は類型を用いた全体論を形成しながらも、個人を視野に入れ続ける実存的理解を定式化するためにメルロ=ポンティの現象学を採用しているよ。これは類型の限界を克服するための処方なんだ。つまり、あるものにおける全体の地図であるところの類型は向かうべき方針こそ示しつつあるが、全体の中の点であるところの僕らが一歩ずつ確信をもって歩を進めるのに足る指針は未だ与えられていない、ってことさ。空から人を知る手がかりを探すことをを止め、いったん類型を離れ、個人に着眼する必要がある。人間の一層深い内側へと滑り込み、個別的な検討を加えることが必要なんだ。そして、人間理解は、全体的理解と個別的理解との往復の作業というものだよ。 ジャックを例に考えてみようか。朝と夕にジャックが煙草を吹かすというのは、彼の規則正しさであるかもしれないし、煙草の心理的作用を狙ってのことかもしれないし、あるいは愛煙家に属するための態度の表れかもしれないね。これはジャックと言う人と向き合わなければ、知ることができないよ。彼の意識がどこをどう辿りどう現れたのかを知ることで、彼が煙草を吹かす理由に近づくことできるだろうね。それはジャック自身、未だ知らない理由であるかもしれないんだ。この朝と夕に煙草を吹かすことに関して、ジャックがINTJであるからと一足飛びに答えに行きつくことは出来ない。INTJであるというのは、傾向を限定する範囲であって、ある特定の解答を決定づけるものではないんだ。だけど、その特定される理由は反転された類型というシステムの中で語られることでもありえるわけだ。 理論化を棄却する反理論である僕の現象学的精神分析16分析は、人間を発見するよ。16分析は、いまだ語られぬ人間の深淵へと実存的接近を試み、人類学的な人の発見を促す、古いものに対する新しい試み方の一つのしかし確かなシステムなんだ。 |